天坛日语导游词

许光汉 分享 时间: 收藏本文

【简介】感谢网友“许光汉”参与投稿,下面是小编为大家整理的天坛日语导游词(共6篇),仅供大家参考借鉴,希望大家喜欢,并能积极分享!

篇1:天坛日语导游词

天壇の概説(てんだんのがいせつ)

天壇公園は北京の旧外城(きゅうがいじょう)にあります。その面積は273万平方メートルで、現存する中国最大の祭祀(さいし)建造物です。現在は北京市崇文区の4分の1を占める公園となっています。明と清の両時代に皇帝が天に五穀豊饒(ごこくほうじょう)を祈った所でした。毎年1月15日に穀物の豊作を祈る行事をやり、冬至(とうじ)には天を祀る行事も行います。雨の少ない年には常雩礼、大雩礼という雨乞いもします。各種の行事を行う前の3日間、皇帝は斎宮で精進潔斎(しょうじんけっさい)をします。「祈穀(きこく)」は祈年殿で行いました。その際皇帝が殿内で礼をすると同時に、殿外では音楽を鳴らしたり、踊ったり、燎炉(りょうろ)に香をたき、神に供える生け贅(いけにえ)が次から次へと神の位牌(いはい)の前に捧げられ、祈年殿はおごそかな雰囲気でいっぱいとなりました。

1368年、太祖(たいそ)の朱元璋(しゅげんしょう)が明王朝を創立し、都を南京に定めました。天と地の神様を祀るために、1378年大祀殿(だいしでん)を築きました。14成祖(せいそ)の朱棣(しゅてい)が都を北京に移し、故宮を築くと同時に、南京の大祀殿を手本として北京で天地壇(今の天壇は昔天地壇といわれていた)を設け、幅12軒の大祀殿を建て、ここで神様を祀ることにしました。当時の大祀殿は12軒の正殿のほかに両側に32軒の廊下と神倉(しんそう)も造られ、正殿の前には大祀門もありました。

1530年、明代の世宗(せいそう)が天と地の神は別々に祀るべきだという大臣の提案を聞き入れ、大祀殿の南に圜丘(かんきゅう)を作り、北の郊外に方沢(ほうたく)を設け、圜丘では天の神を祀り、方沢では地の神を祀るようになりました。そして1534年圜丘を天壇、方沢を地壇と名付けました。

明代の天壇は漢白玉石(かんはくぎょくせき)という大理石よりもっと白い石も使いましたが、主に青色の琉璃瓦で造りました。そして四天門(してんもん)、神厨(しんちゅう)、神庫(しんこ)、宰牲亭(さいせいてい)があり、神の位牌(いはい)を置くため圜丘の北に2重屋根の円い形の神泰殿(しんたいでん)も築き、円形の壁でその殿堂を囲みました。それがのちの皇穹宇(こうきゅうう)と名付けられた殿堂と廻音壁(かいおんへき)です。

1538年祈穀殿(きこくでん)と名が変わった大祀殿は廃棄されましたが、1540年大享殿(だいきょうでん)が建築されることになりました。1545年に出来上がった大享殿も円い形で3重の屋根があり、その色は下から上に緑、黄、青となっています。6年を費して建てられた大享殿は明代ではただの2回しか使ったことがありませんでした。

1750年大享殿の左右2棟ずつの配殿も1棟ずつに直し、配殿に置く日、月、星、辰、山、川、河、湖、風、雨、雷、稲妻などの神の位牌がすべて撤去され、皇帝の祖先の位牌に変わりました。

1751年大享殿と大享門が祈年殿と祈年門に変えられ、屋根の色も全部藍色(あいいろ)にされました。

1889年、雷で350年の歴史を持った祈年殿は焼けてしまいましたが、その時建物は全部沈香(じんこう)の木で造ってあったので、その香りが周囲数キロにもわたって漂っていたそうです。

1890年再建にかかり、18やっともとの形と同じような新たな祈年殿が築かれました。

清が滅びた時残っていた天壇は273ヘクタールもある広い名勝地でした。1枚の壁が天壇を外壇と内壇に分け、壁は北は円く、南は四角い形になっています。外壁の長さは6416メートルで、内壁の長さは3292メートルあります。門は2つあります(ほかの3つの門のうち、北と東の門は民国時代に作ったもので、南の門は解放後作ったものです)。外壇には松と檜がいっぱい植えてあり、建物など一つも見えません。建物はほとんど内壇に集まっています。内壇を北から見ればまず神の位牌を置く場所としての皇乾殿(こうけんでん)が立っています。まずこれを簡単にご紹介致します。

皇乾殿(こうけんでん)

皇乾殿は祈年殿に祀られた神の供養を行った場所です。白い大理石の台座の上に建てられています。明の永楽(1420年)に創建され、天庫(てんこ)と呼ばれています。当時は6間もある黄色い煉瓦の建物でした。嘉靖(かせい)24年(1545年)に改修され5間となり、皇乾殿と改称されました。その後、清の乾隆(けんりゅう)期に黄色い煉瓦は瑠璃瓦に替えられました。

次は祈年殿についてご紹介致します。

祈年殿(きねんでん)

皇乾殿のすぐ前は祈年殿です。祈年殿が3層の漢白玉石の台座の上に聳えたっています。台座の面積が5900平方メートルあり、層毎に彫刻されている手すりがあるほか、南北の階段の中央にまた龍雲石というレリーフも嵌め込んであります。真っ白な台座に聳えている祈年殿は高さ38メートルで、直径が32.72メートルあります。円形の赤い木造の壁と青琉璃瓦の3重屋根の頂には、金メッキの宝頂と呼ばれる飾りが置かれています。遠くから眺めると青空の下で白、赤、藍などの色彩の華やかさと建物の雄大さに感動させられます。

それぞれ9段となっている階段を登り、祈年殿に入って見ますと、壁にはレンガも石も使われていませんし、天井には釘や長い横梁(よこばり)や大きい棟木(むなぎ)も使われていません。四季を代表している高さ9.2メートルの4本の龍井柱、12ヵ月を意味する12本の赤い柱と、窓に嵌めこまれている1日の12刻を意味する12本の柱だけで、重い屋根を支えています。柱は合わせて28本ありますが、これは天の28の星座を意味しています。龍井柱を除いた24本は1年の24の節気(せっき)を象徴しています。天井はこれらの組み合わせによって高くて大きな円形になっています。地面にある龍と鳳凰(ほうおう)の模様になっている円い龍鳳石(りゅうほうせき)と対応するように天井には彫刻の龍鳳もあります。殿堂の真正面の御座と屏風は神の位牌を置く所で、東側は皇帝の祖先の位牌を置く場所です。西側は皇帝の一休みする所だそうです。

殿堂を出て眺めると、前には数百年前からの銅製の八卦炉(はっかろ)というかまと鼎(かなえ)という3本足の丸く深い器が置いてあり、広い庭の両側にはおのおの9間の配殿が並んでいます。

目を祈年殿の東に向けますと、72間もある長い廊下が見えます。廊下は打牲亭(だせいてい)という生け贅を殺す所や、神庫や神厨をつないでいます。それは神に供える食べ物をほこりや砂などから守るために、わざわざ作った廊下です。この廊下が祈年殿まで伸びていないので、行事を行うたびにそこにテントを作り、供える食べ物に少しもほこりが落ちないように用心深くしていたということですが、今も地面にテントを立てるための穴が見えるそうです。

祈年殿の正面は祈年門です。門の南東に瑠璃瓦の燔柴炉(はんさいろ)が残っていますが、それは生け贅を焼く所だそうです。

次は海漫大道を歩きながらご紹介いたします。

海漫大道(かいまんだいどう)

祈年門から南へまっすぐな道が伸びています。この幅28メートルの道は長さが360メートルもあります。道の中央には一直線に漢白玉石が敷かれ、その両側には城壁に使うレンガが敷かれています。祈年殿、皇穹宇と圜丘台を一線につないでいるこの道はいわゆる海漫大道です。大道の中央に「服台」(ふくだい)という所も残っており、昔皇帝が行事を行う時、服を着換えた所だったということです。

では海漫大道の南端にある皇穹宇を一緒に見学しましょう。それから廻音壁についてまたご紹介いたします。

皇穹宇(こうきゅうう)

海漫大道の南端にある皇穹宇は祈年殿と同じ形で、スケールの小さい円い建物です。皇穹宇の屋根も藍色なので、遠くから眺めると開いた藍色の傘のように見えます。この高さ19.5メートル、直径15.6メートルの殿堂は16本の柱で円形の屋根を支えています。殿内には神と皇帝祖先の位牌が置かれ、殿堂の両側には配殿もあり、すべてを円い壁で囲んでいます。壁の西の外側に「九龍柏」という数百年の古木(こぼく)があり、壁のま南はやはり門となっています。

廻音壁(かいおんへき)

皇穹宇を囲んでいる塀は廻音壁と呼ばれています。この壁で、二人左右に分かれて、一人が小声で壁に向ってささやくと、180度反対の所にいるもう一人の耳にその声が伝わります。つまり、現代の電話のように、顔も見えない所での話し声が伝えられます。これは家来たちに内緒話をさせないため造られたそうです。皇穹宇の前の三音石という石上に立って手をたたくと、こだまが1つ、2つ、3つと聞こえます。いずれも科学的でない考えに基づいて造ったものですが、結局科学的結果が出てきているというのは、円い形が大きな役割を果たしているからでしょう。音波が周りの壁や欄杆(らんかん)にぶつかって、こだまとなって返ってくるとか、声が屋根のあるすべすべとした壁に沿って廻って、発散しないので、電話のように他の位置に伝わるとかいうのは、建築学と声学の巧みな結合によるものです。当時の人にとって、そんな現象は神に近く、神が人間の声を聞いたり答えたり出来るとしたのです。

皇穹宇の南は圜丘台です。その圜丘台とそこで行われる行事の様子をご紹介いたします。

圜丘台(かんきゅうだい)

皇穹宇の南は2重の赤い壁に囲まれている圜丘台です。それも外壁が方形、内壁は円形となっています。この円形の台を圜丘台といいます。皇帝が天に祈りを捧げる場所です。3層の壇は大理石で出来ており、建物はありません。冬至の日に、斎宮(さいきゅう)で身を清めた皇帝は、中央の天心石からその年の出来事を天に報告しました。そこに立って声を出すと、周囲の壁に反響して、大きなこだまが返ってきます。台の周囲には4つの「天門」があります。南は昭享門(しょうきょうもん)で、東は泰元門(たいげんもん)といい、西は広利門(こうりもん)で、北は成貞門(せいていもん)と言われています。3段造りの真っ白な円形の台がその中央に聳え、上段の直径は30メートル、中段は50メートル、一番下は70メートルですが、石の数、手すりの数、階段の段数などはすべて9の倍数となっています。例えば、階段は全部で9段です。3段作りの円形の台の最上段には、1枚の丸い石が真中に敷かれ、それを囲んで1周目の石が9枚、2週目は18枚で、9週目は81枚です。台の中段は10週目の90枚から18週目の162枚まで、3段目は19週目の171枚から243枚までです。手すりも最上段に72本、中段に108本、下段に180本あります。

望燈竿、燎炉、燔柴炉(ぼうとうかん、りょうろ、はんさいろ)

圜丘台に立って見ると、外壇の緑が満喫でき、台の南にある燎炉(香や祭文を書いた板、絹などを焚く所)と東南にある燔柴炉と西南の望燈台(ぼうとうだい)も見えます。天を祀る行事は冬至の夜明けに行う慣しでした。

まず圜丘の西南に長い竿を立て、大きな燈籠をかけます。清の乾隆帝の時、その竿が4.5メートルも長く、その上にかけた燈籠が2.7メートルもあり、中の蝋燭(ろうそく)も1.3メートル以上の高さがあったそうです。これは「望燈」と言って、行事を行う前、まずそれに燈をともしたそうです。その時刻になると、鐘を鳴らして、皇帝が斎宮から圜丘に上がり、圜丘の中心に着けば、鐘は止みます。と同時に8つもある燎炉で香をたき、燔柴炉で生け贄を焼き始めます。するとすぐに圜丘には香と煙が立ち込めます。これを「繚庭(りょうてい)」といいます。煙の中から祝詞(しゅくし)の声が聞こえ、皇帝が大臣を率いて、香を捧げて神を迎え、それから供え物を捧げます。最後は音楽を鳴らして、舞人たちが踊って神を見送ります。神はもう帰られたと思った時、すべてをやめて皇帝が鐘の音の中を帰るという神聖な雰囲気に満ちた行事でした。

最後に、圜丘の西側にある斎宮についてご紹介いたします。

斎宮(さいきゅう)

圜丘の西には斎宮という東向きの建物があります。面積は4万平方メートルで、正方形の建物です。本殿の5間は皇帝が斎戒(さいかい)する場所です。寝殿も同じく5間あり、横に浴室が付いています。明の永楽18年(1420年)年に創建され、その後何度か改修されましたが、最後の改修は清の嘉慶24年(18)です。城のように城壁もあり、また堀りもあります。堀りに面しているのは廊下で石橋が掘りにかかり、城の中には無梁殿(むりょうでん)と言われている正殿と寝殿と鐘楼のほかに、石亭も一つあります。この石亭の中心に「斋戒(さいかい)」と書かれた銅の牌を握った人形が立っていますが、それは唐代の大臣の姿だという伝説があります。

ここまでご覧になり、天壇の様子についてもう大体お分かりだと思いますが、不思議に思うこともあるでしょう。例えば

どうして塀は北は円形、南は方形となっているのでしょうか。

どうしてすべての建物が円形になっているのでしょうか。

9の数字には何か特別な意味があるのでしょうか。

外壇に松がいっぱい植えられているのはどんな意味なのでしょうか。

北京の宮殿の屋根がほとんど黄色なのに天壇のはどうして藍色なのでしょうか。

海漫大道にはどんな役割があるのでしょうか。

など……。

実は数多くの「どうして」が分かって始めて天壇の持っている独特な趣が味わえるのです。では天壇の表からその裏まで含めた境内に入り、その底に流れている中国風情を探りましょう。

昔中国人は天は円くて不思議な神の住む所、地は四角い人間の住いだという考えを持っていました。それを知れば、天壇の塀は北が円く、南が四角い構造のわけが分かるでしょう。

天壇は天の神様を祀る所ですから、本当に空にある雰囲気を作らなくてはならないので、外壇に一年中緑色である松を植え、建物を円形にし、屋根にも空の色と似ている藍色を塗りました。そうして内壇に立って見ると、下は蒼い色ばかり、身の周りはみな天を連想させる円い形、上は見わたす限り青空、そんな境地に身を置けば、すでに天にいるような感じがします……。それにその円い形から不思議なことも起こります。圜丘台の中心に立って声を出すと、声が大きくこだまします。廻音壁もそうした音響効果を利用したものです。

古代の中国人はまた天が9層あり、天の神はこの9層の天に住んでいるというおもしろい考え方を持っていました。それで天の神を祀る場所は数字がみな9になるべきといろいろ工夫しました。工夫の最たるものは圜丘で、そこが円形で、9の倍数の敷石(しきいし)による造りのほかに屋根もないのは、すでに天の上の台という意味をよく表していると思われます。

それでも天に上がるには、長い道を通らなければなりません。それを表すため、「海漫大道」を築きました。圜丘台から「天堂」に進む途中は、天の青とそれに似た樹々の緑しか見えず、白い道を白雲と考えていいので、祈年殿に着くと、もう雲を踏んで青空を通り、天の神のいる所に着いたと言えるのです。

要するに当時の人々の頭の中の、天に対する見方を具体的に見える形にして、生き生きと建築物として再現し、いわば人間の極楽として創造したというのが天壇の魅力であり、偉大さであります。

現在、人々はもう神など信じていませんが、昔は確かに今から見れば不思議な信仰を持っていた時代がありました。そしてそういう信仰から偉大なものも生まれました。天壇もその一つです。現在の天壇は公園となり、観光地となりました。配殿も売店と変わり、外壇は亭や花などが公園に一層美しさを加えています。

しかし歴史がどう進んでも、人間がどう変わっても、祖先の事やまた伝説を慕い、歴史をさかのぼって、その時代に思いをはせることは価値のある楽しみで、懐かしい気持ちにもなるでしょう。天壇こそそんな楽しみ、懐かしさをもたらしてくれる場所なのです。われわれ人間の歩んできた道を顧みたいと思うなら、建築の美と歴史の美を持っている天壇へ古(ふるきもの)をしのび、味わう気持ちでいらっしゃってください

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篇2:天坛导游词

游客们,你们好!我是今天为你们服务的导游,我叫王又立,大家可以叫我王导。今天我要陪伴大家共同游览西藏的布达拉宫,下面由我简单为大家介绍一下布达拉宫。

布达拉宫建于公元7世纪,建造了999间房屋,现占地41万平方米,建筑面积达13万平方米。宫体主楼有13层,高115米。它下面是玛布日山,传说是当时吐蕃王松赞干布为迎娶唐朝的文成公主而建的。松赞干布建立的吐蕃王朝灭亡之后,古老的宫堡也大部分被毁于战火。直到公元17世纪,五世建立噶丹颇章王朝并被清朝政府正式封为地方教首领后,才开始了重建布达拉宫,时年为公园1645年。以后历代又相继扩建,才成就了布达拉宫今天这样的规模。

听了我的介绍,大家应该大体明白布达拉宫了吧!现在是上午9时整,两小时候到布达拉宫旅馆见,请不要违反游园规定,同时希望你们能在旅途中发现更多的奥秘。

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篇3:天坛导游词

一、天坛简介

(一)涉及内容

1、天坛的“世界之最”判定语

2、天坛的建造时间

3、天坛的位置

4、园内概况

5、历史沿革

(二)介绍位置:天坛南门内简介牌前

(三)导游词

各位朋友,现在我们来到了天坛,首先我为大家简单介绍一下,天坛是世界上现存的规模最大的古代皇家祭祀性建筑群,它是明清两代皇帝祭天、祈谷及祈雨的地方.天坛完工于公元14,位于紫禁城的东南方向,全园占地273公顷,是紫禁城面积的4倍。在中轴线上有三组非常重要的建筑,自南向北依次是圜丘坛、皇穹宇及祈年殿。另外,园中西侧有斋宫等建筑,全园遍植古松、庄严肃穆,是一处非常理想的祭祀场所。

在明代,天坛初建之时,实行天地合祭,不仅祭天,而且祭地,其位置便是今天祈年殿所在的祈谷坛上。后来,在京城的北面设地坛,专门祭地,又在祈年殿的南侧修建了圜丘坛及皇穹宇,专门祭天,从而形成了今天的格局及规模。19八国联军入侵北京,天坛也未能幸免于难。侵略者在此胡作非为,盗走并破坏无数珍贵文物,犯下不可饶恕的罪行。

最后一个在这里祭天的人是窃国大盗袁世凯,但天不随人愿,袁某只做了83天皇帝瘾便一命归西了。解放后,国家多次拨款重修天坛,但不再是为了祭天,而是为了给世人、给世界留下一份遗产。

天坛被联合国教科文组织列为人类遗产目录。好!下面我就带大家参观。

二、圜丘坛

(一)涉及内容

1、圜丘坛的作用

2、建造时间及地点

3、建筑特色

4、周围的陈设

5、天心石

(二)介绍位置:圜丘坛门内东南角

(三)导游词

各位!现在我们来到了圜丘坛景区,其实呀,它才是真正的“天坛”,因为这里才是皇帝在冬至祭天用的祭天台。圜丘坛建于明嘉靖年间,即公元1530年,位于整个院落的南端,我先给大家介绍一下圜丘坛院落中的陈设。请看西边,那里有一杆很高的木杆,它叫望灯杆,是祭天的时候挂灯笼用的。各位也许要问:祭天挂什么灯笼呀?当然要挂啦!因为当年祭天的时间不是在白天,而是在日出前七刻,即零晨四点一刻。您想想,在漆黑的冬夜,老百姓都在被窝里熟睡的时候,皇帝来祭天,也真是够辛苦的,挂个灯笼照个亮,不过分吧?不过,皇帝照亮,非同一般,那必须是“吉灯高照”。那么现在请大家猜一猜这座灯竿有多高?现在我来宣布正确答案:灯杆的高度是九丈九尺九寸,为什么不再加点凑够10丈呢?肯定有原因,不错,请各位先猜猜看,待会儿我再告诉大家。不仅灯杆不一般,那灯笼也不一般,高有两米,直径两米六,够气派吧!但最不一般的还得说那灯笼中的蟠龙通霄宝蜡,长有一米三,直径三十厘米,可连续燃烧12个小时,既不用剪蜡花,也不流蜡油,是当年皇帝祭天的专用宝蜡。

再看看东边的这个绿色建筑物,它的名字叫燔柴炉,是在祭天大典结束后,焚烧祝板及祭品的地方。这是铁镣炉,在进行大典的时候炉内燃烧松杆、松柏,同时还烧些檀香木,一时间火光冲天,香烟缭绕,不但增加了神秘庄严的气氛,而且在寒冷的冬夜给皇帝带来了一丝暖意,真是一举多得呀!

现在,言归正传,我给大家介绍一下圜丘坛,它是一座三层的圆形石台,为什么要将祭天台设计成圆形呢?因为古代人们认为天是圆的,地是方的,既然是祭天台,自然要设计成圆形了。普通人看这座祭天台是用大理石建制的,但设计者们是用数字“九”建成了这座神秘的祭天台,现在我们一起来找找那些神秘的“九”看它们藏在何处。

(走近圜丘坛,在圜丘坛的近前)

耳听为虚,眼见为实,在这儿咱们不妨来个脚踏为实,请大家一边登上这一组台阶,一边数数这组台阶有多少级(自地面层到底间层,因为这里人少,面积大)一、二、三、四、五、六、七、八、九,正好九级(把客人带到底层平台的东侧)。往上还有两组台阶,每组也是九级,整个圜丘坛东、南、西、北各开一口,每个登坛口都有上、中、下三组台阶,每一组台阶都是九级,现在我们已经找到了12个“九”了。我们再找找看,脚下底层祭坛的坛面直径21丈,没有“九”,中层直径15丈,也没有“九”,顶层“九”丈,有一个“九”,如果把三层直径相加,便是四十五,五九四十五,不但有“九”还有“五”,象征皇帝的“九五”之尊。真是巧夺天工!那么,别的地方还有“九”吗?有!请各位更上二层“九”,我们到最上层看一看。

(在圜丘坛顶端,东侧无人处)

各位,现在有没有感到“九”的气味儿更浓了?大家请看坛面中心,有块圆形石块,它叫天心石,被一层一层的扇形石板所环绕,这第一环是九块,第二环是二“九”一十八块,第三环是三九二十七块,直到最边上一环为九九八十一块。再看一看中层,它由十个九块开始至十八个九块,底层至十九个九块至二十七个九块,即三层坛面,每层铺九环石板,每环石块又都是九的倍数,自一倍至二十七倍,这样,上、中、下三层坛面共铺石板3402块,即378个“九”。

还记得吗?刚才我们看到的望灯杆高九丈九尺九寸,燔柴炉两侧台阶各九级,皇帝还嫌不够,祭天时还要向皇天上帝敬酒,可见皇帝对九的崇敬,为什么?咱们下坛再说。

(天心石讲解)

各位请看,在祭天台中心有一块突起的圆形石块,它叫“天心石”,又叫“亿兆景从石”,为何叫天心石呢?据说这块石头是宇宙的中心,是皇帝与天上诸神们相互交流的“天界”,故心有灵犀者,便可在此与“神”交流一番。那为什么又叫“亿兆景从石”呢?“亿兆”是多的意思,“景从”是象影子一样随从,所以说白了“亿兆景从石”就是“一呼百应石”,这是一组奇妙的声学现象,即当你站在圆心石上,轻声说话时,声音不仅宏大,而且有共鸣及回音。那么,这是什么原因造成的现象呢?请看,由于坛面十分光洁平整,声波传到周围的石栏杆后能迅速地被反射回来,据声学专家测验,从发音到声波再回到圆心石的时间仅为0.07秒,说话者根本无法分清它是原音还是回声,所以有一呼百应的感觉。当皇帝站在天心石上说话的时候,感到不仅有神助——声音宏亮,又有人助——一呼百应,身为人君者便把这一呼百应的回声当成是天下万民对自己的无限忠心及一致响应。以前只有皇帝才能站在这里说话,现在我们也可以蹬上天心石许下一个美好的愿望。不过,别贪心,每人只能许下一个心愿,现在我们推举一名德高望众的朋友为我们大家许个愿吧!

(九的揭密,在走下圜丘坛后的东北侧讲解)

各位朋友,现在是我们解开“九”的秘密的时候了,我问问大家,自然界最大的东西。

篇4:天坛导游词

уважаемые туристы, здравствуйте, меня зовут ван хх, вы можете звать меняВан гид. я гид из туристического агентства. будьте добры, следуйте моим стопам.наш сегодняшний достопримечательность - всемирно известный храм неба впекине.

И вот, мы пришли в храм молитвы. храм – это первое здание храма неба, в нем33 метра высотой около 11 этажей. 24 августа 1887 года гроза переменилась, и, ксожалению, храм молитвы был разрушен и сожжен. ибо столбы его - - сандаловоедерево, и дерево в нем велико.

Ниже мы прибыли в “небесный склад”, в небе три звуковых камня, он был вжелтом своде, как только на первый три звуковых камня стрелять, эхо, выстрел навторой трезвый камень, Эхо два раза, на третий трезвый камень стрелять, Эхо трираза, так что они называют “три звуковых камня”.

в желтом своде есть стена эха, вы стоите на одном конце, прикрепляя к стенетихо говорить, другой конец, если ухо прикреплено к стене, чтобы услышатьаномально ясно, и стереоэффект о! Это доказывает, что китайский народ уже можетпользоваться акустикой 520__ лет назад. Разве не мудро?

А теперь мы пришли на купол, где две Защитные стены, лестницы и древниестатуи.

туристы, теперь вы свободны смотреть, но внимание, не путать картины, сдетьми для туристов, пожалуйста, трубы для ваших детей, через два часавстретимся у входа в храм неба.

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篇5: 天坛导游词

尊敬的女士们、先生们、小朋友们:

好的,游客朋友们大家好,欢迎大家来到天坛公园,很荣幸能够成为大家的导游,我代表飞翼旅行社对大家的到来表示热烈的欢迎。首先呢,我简单的做个自我介绍,我叫xxx,大家可以在接下来的旅途中叫我xx,好的,在我们开启天坛之旅前呢,我想先跟大家强调几点,最近呢,由于属于旅游的旺季,所以咋们天坛公园的游客非常的多,很容易走散,所以希望大家能跟紧我手中这把引导旗,不要走丢,如果大家在游览中走散的话,请及时与我联系,拨打我的手机,我的手机号是xxxx好的,那么大家可以看到我身后呢,就是天坛的北门了,现在呢,大家就跟我走,开始今天的天坛之旅吧。

此刻在我们眼前的就是圜丘坛了,历代封建皇帝啊对祭天活动都极为的重视,每年都要两次亲临天坛祭天。第一次呢是在农历正月十五,至到祈年殿举行祈谷礼,第二次呢是在冬至日,来到现在我们眼前的圜丘坛,禀告五谷业已丰收,感谢天帝的保佑之恩。圜丘坛在建筑形式上,有着许多神奇有趣的说法。大家可以看到眼前的圜丘坛共分三层,每层四面各有台阶九级。如果有细心的朋友可以发现,各层铺设的扇形石板,都是九或九的倍数。不仅如此,圆台的上层直径为9丈,中层直径为十五丈,下层直径为21丈,合起来45丈,不但是九的倍数,而且还有“九五”之尊的含义。那么为什么要用九或九的倍数来设计建造祭坛呢?原因呢有以下俩点,第一呢、据神话传说,皇天上帝是住在九重天里的,所以用九或九的倍数来象征九重天,以表示天体的至高与至大。第二点呢、在我国古代把单数(奇数)看作阳

数,而将双数(偶数)视为阴数。天为阳、地为阴。天坛是用来祭天的,只能用阳数进行建筑。而“九”又被视为“极阳数”,所以这是最吉祥的数字啦。

好,现在我们继续往前走。眼前的这座殿宇就是皇穹宇了,它距今已有四百多年的历史了。我们进里面一探究竟,大家可以看到他的建筑结构呢为砖木结构,它的奇特之处在于整个殿宇只用八根檐柱支撑,顶无横梁,而是由众多斗拱所支撑的,不可不谓神奇。殿内正中的石台宝座,是放置皇天上帝神牌的地方;宝座前左右俩侧的石台,是放置皇帝历代祖先牌位的地方。殿外的东西配殿,为供奉日月星辰和云雨风雷诸神牌位之所。走到这里后不知道大家有没注意我们周围的这圈围墙?这就是颇负盛名的回音壁。回音壁,顾名思义它的有趣地方就在于它的回音了。如果两个人分别站在院内东西配殿后的墙下,均面部朝北对墙低声说话,可像打电话一样互相对话,很有可能是微信语音的发源地啊,哈哈,开个小玩笑,好的,我们继续往前走。我们现在从皇穹宇的西面出来,在这里有一株古柏,名为九龙柏,是国家著名的古树之一,树干纠结扭曲,宛如九条盘旋而上的蟠龙,故由此得名。大家看上面挂着的红色的标志牌,这种标牌的颜色其实也是有讲究的,标志红牌表示一级古树,标志绿牌表示二级古树,据传这棵古柏生长于建坛之前,已有近千年历史,所以挂红牌来展现它的价值。

好的,我们继续往前走,

现在我们眼前的便是祈年殿和祈谷坛了,这里是明清两代皇帝孟春祈

谷的圣地。我们往里走,大家一进里面就可以看到殿内的柱子很是雄伟哈,殿内柱子的数目,据说是按天象设立的。里层的四根鎏金通天柱,叫做“龙井柱”,象征春夏秋冬四季。中层的12根朱红金柱,象征一年12个月。外层的12根檐柱,象征一天的12个时辰。中层12根金柱和外层12根檐柱相加为24根,象征一年中的24个节气。金柱、檐柱和龙井柱相加为28根,象征周天28星宿。再加大殿宝顶藻井周围的8根童柱,共计36根,象征36天罡。宝顶中心的雷公柱,象征着天帝的\"一统天下”。从这里呢大家也可以发现,一些建筑物的建筑风格也是有着其建造年代历史烙印和文化思想的。

好的,游客朋友们,这里是天坛的东门了,我们今天的天坛之旅呢到此就落下帷幕了,希望今天上午在我的带领下大家在这里玩的愉快。现在呢,给大家30分钟的休息时间,30分钟后我们还在这里集合,前往下一个景点。好的,大家可以解散自由活动了。谢谢

篇6: 天坛导游词

北京天坛是明朝永乐皇帝建成的祭天圣坛,也是我国现存最大的一处坛庙建筑。天坛公园土也广大,古柏参天,建筑精美。下面是小编为你带来的天坛导游词,希望对你有所帮助。天坛导游词1

大家好,我是这次旅游的导游,我姓xx,大家可以叫我xx导!

现在快到目的地--北京天坛,所以我先给大家将一些注意事项:“礼貌、卫生、秩序、眼看手勿动、禁止乱涂乱画”这五点,记得哦!

乘客们,旅游景点已到,请大家有秩序的下车!现在我们来到了天坛的正门,这里是皇帝前来祭祀时进出的大门。现在,就让我一一地为大家介绍吧!

天坛,1998年11月被列入《世界遗产名录》。它位于北京城南端,是明、清两代皇帝祭祀天地之神和祈祷五谷丰收的地方。天坛不仅是中国古建筑中的明珠,也是世界建筑史上的瑰宝。

天坛东西长1700米,南北宽1600米,种面积为273万平方米。天坛包括圜丘和祈谷二坛,围墙分内外两层,呈回字形。北围墙为孤圆形,南围墙与东西墙成直角相交,为方形。这种南方北圆,通称“天地墙”,象徽古代“天圆地方”之说。

以上就是天坛的故事,时间不早了,现在,大家自由参观拍照吧!--转眼间,我们的北京天坛一日游又结束了,大家有秩序的坐车回家吧!

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